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美術展など

宮沢賢治の手紙と信仰〜山梨県立文学館の宮沢賢治展に行った感想〜

宮沢賢治の手紙と信仰〜山梨県立文学館の宮沢賢治展に行った感想〜

山梨県立文学館

いちょうの葉も少し色づき始めた9月末のある日、山梨県立美術館に併設された県立文学館開館30周年記念の企画展『宮沢賢治展 ようこそイーハトーブの世界へ』に行ってきました。

文学館の庭に入ると、うつむいた宮沢賢治の姿が目にとびこんできます。歩みを進めると、こんどは違った色の賢治が。まるで、賢治自身がイーハトーブの世界に誘ってくれているようです。

色とりどりの賢治に誘われて

この日は朝から曇りがちだったので、富士山は見えないかなと思っていましたが、ひょっこり顔を出してくれていました。富士山と宮沢賢治を眺めるうちに、賢治ははたして山梨に来たことがあったかなと首をかしげながら、文学館に入りました。

山梨県立文学館入り口

宮沢賢治は、1896年、岩手県花巻市に生まれました。盛岡高等農林学校を卒業後、花巻農学校の教師、農業技師として農民指導に尽くしました。また、法華経に傾倒し信仰者としての信念を貫く一方、1933年37歳で亡くなるまでに、東北地方の自然や人々のくらしを題材として、独特の宇宙観に根差した詩や童話など数多くの作品を遺しました。

生前、二冊の本が刊行されたものの宮沢賢治の名はほとんど無名に近く、その作品の多くは亡くなったのちに世に知られるようになりました。

本展では宮沢賢治が遺した詩、童話や、手紙などにより賢治の生涯をたどりながら、賢治が理想とした故郷岩手の「イーハトーブ」の世界観に迫ります。

私が初めて、宮沢賢治の作品に出合ったのは小学生の頃。父が買ってくれた『セロ弾きのゴーシュ』という童話でした。チェロのことをセロと表現したり、ゴーシュというどこの国の人かわからない名前の主人公と、猫やかっこう、狸など次々と現れる動物たちとのやりとりがとても面白く、その挿絵は今でも頭に浮かんできます。

特に印象に残ったのは、最後の場面で、ゴーシュが前に怒って驚かせたかっこうに思いを馳せ、「あのときはすまなかったなあ」と誰に言うともなく謝る場面でした。ゴーシュが毎晩訪問してくる動物たちとの掛け合いのなかで、知らず知らずのうちにセロの腕前を上げて行くという愉快なお話なのですが、その最後の場面だけはどこか切ない感じがして、その余韻が心に残り印象的だったのを覚えています。

その後、『どんぐりと山猫』『よだかの星』『やまなし』『風の又三郎』などを読みましたが、賢治の作品にはどこか共通する哀感というか切なさというか、不思議な感覚が余韻として残るのです。それが一体何なのか、子どもの頃はわかりませんでした。

大人になって長い間遠ざかってしまっていた賢治作品。今回この展示を観て、再び宮沢賢治の世界に出合うことが出来、子どもの頃感じた不思議な余韻が何だったのか、少しわかったような気がしました。

賢治自筆の水彩画 期間を区切って実物と精密複製を展示 山梨県立文学館図録より

展示では、有名な「雨ニモマケズ手帳」や賢治が購入したバイオリンまた山梨県韮崎市出身の親友、保阪嘉内や家族に宛てた葉書や手紙、そして賢治自筆の水彩画などが展示してありました。

なかでも今回初公開されたのは、1917年1月16日、日本女子大在学中だった妹トシへの手紙と、1919年1月18日父政次郎への手紙です。

トシへの手紙には、東京で寮に入って勉学に励む妹へ「ゆっくり勉強して居ってください」とか「あまり勉強し過ぎない様にしてください」とか兄として妹を思いやる心情が綴られています。また父への手紙は、入院したトシを看病し、その病状を賢治が毎日のように報告したなかの一通で、献身的に妹を看病している様子が書かれています。

その他、盛岡農林高等学校の親友、保阪嘉内への手紙は展示数も多く、二人が頻繁に書簡を遣り取りし、友情を育んでいたことがよくわかります。

保阪嘉内は、賢治と同年の1896年、山梨県北巨摩郡駒井村(現在の韮崎市藤井町駒井)に生まれました。賢治とは盛岡高等農林学校の寄宿舎で同室となり、文学を語り、農業の理想を求めて切磋琢磨し合ってきました。学校での付き合いは、嘉内が学籍除名処分になるまでのわずか2年余りだったのですが、二人の交流はその後もしばらく続き、互いの人生に深く影響を与え合っていたようです。

展示室の資料には、賢治が山梨を訪れたという記述はありません。しかし、保阪嘉内から、山梨の風土のことをよく聞かされていたらしく、『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』などその作品に少なからず影響を与えていたといわれています。

現在、保阪家に所蔵されている賢治の書簡は73通。(残念なことに嘉内から賢治に宛てた手紙は戦災で焼失し一通も残っていないらしい)今回はその一部が展示されていましたが、なかでも気になったのは1918年3月の手紙でした。

解説によると、その手紙は嘉内が学校から除名処分を受けたことを、山梨に帰省中の嘉内に賢治が知らせたもので、便箋4枚の表裏にびっしり書いてあります。除名処分の理由は明らかにはなっていませんが、以前嘉内が同人誌に書いた文章が理由ではないかと賢治は推測しています。除名処分を知らせる手紙を嘉内宛すぐに書いた賢治は一旦投函を思いとどまり、教授に処分の理由を尋ねるなどして追記し、前編・後編併せて投函したようです。

罫いっぱいに書き連ねた文字には、予期せぬ親友の退学に動揺し、苦悩する若き日の賢治の感情がほとばしり出ているようでした。失意の嘉内に心からの励ましを送り、最後は自身が拠り所とする法華経の祈りで結ばれています。


また、もう一通印象に残っているのが、1918年5月の「私は春から生物のからだを食ふのをやめました。」と嘉内に伝えている手紙です。食卓の魚や屠殺場の豚に思いを寄せ、それを食うことの切なさを訴えています。この記述からでしょうか、賢治はベジタリアンだったと言われていますが、理由は健康のためとか、極端に繊細なためとかいうより、生きとし生けるものに対する賢治の深い慈しみの眼差しが理由になっているようです。

その思想の根幹は、強盛な法華経信仰で、賢治の手紙のなかにはよく法華経の経典や題目が出てきます。有名な「雨ニモマケズ」も実は最後の部分の「サウイフモノニワタシハナリタイ」の後「南無妙法蓮華経」を中心とする曼荼羅の一部で締めくくられているのです。

私が幼い頃に感じた不思議な感覚は、賢治の信仰を基とする生き方そのものからくる深遠さによるのではないかと思いました。あらゆる生物を尊ぶ豊かな感性、宇宙大に広がりをもつ宗教的な体験、そして現実社会において全ての命との共存を求めて苦悩する賢治の孤独な生き方、それらが混然一体となって醸し出す世界観、まさにそれこそが賢治文学の魅力のひとつではないかと思います。

ここだけが撮影可能な部屋

賢治の鋭い感性は自分の死期をも敏感に感じ取っていたようです。

1931年9月21日、技師として上京する途上、病に倒れた賢治は父母や弟妹たちに遺書を書いています。遺書は、賢治の死後、愛用のトランクのポケットから「雨ニモマケズ」手帳とともに発見されました。

「この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら」で始まる遺書を読むと、妹トシに続いて頼りにしていた長男にまで先立たれる親に思いを巡らし、賢治はいったいどんな心もちでこれを認めたのだろうと胸がいっぱいになりました。賢治は遺書を書いた2年後の1933年、ちょうど同じ日の9月21日に亡くなります。まるで予期したかのような不思議な符合にとても驚きました。

宮沢賢治
宮沢賢治の遺書宮沢賢治の遺書 山梨県立文学宮沢賢治展 今秋、山梨県立文学館で開催された「宮沢賢治展 ようこそイーハトーブの世界へ」を見学しました。...

場内には、賢治が理想とした「イーハトーブ」の岩手の地図や、賢治が愛した山や空、雲、川などの写真が飾られていました。ソファに座り、しばらくその風景を眺めていましたが、「イーハトーブ」とは決してどこか遠くにある理想郷ではないのではないかと思い始めました。

私たちの心の有り様で、それはいつでもどこでも、あなたの近くに築くことができるよと、賢治が教えてくれているような気がします。

この展示を機に、もう一度宮沢賢治の作品を読み直したいと思いました。子どもの頃賢治の童話を初めて手にしたときから数十年を経て、今また当時とは違った新たな賢治の世界が広がるかもしれません。

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なえ
山梨生まれ山梨育ちのおばちゃん(おばあちゃん)。セカンドライフ。地元山梨の色々な場所を巡りながら、美術館の感想やおすすめの情報、雑学などをブログに書いていきたいと思います。