戸越の豆腐屋さん、喜多村商店
数年前、夫の仕事の関係で少しのあいだ東京の戸越で生活し、徐々に慣れてきた初夏のある日のこと、近くの商店街に夕飯の買い物に出かけました。
山梨では、車で少し離れた大型スーパーに行き、食料品や日用品など1週間分くらいまとめ買いをすることがほとんどですが、戸越では近所にいくつかの商店街があり、買い物も夕方その日の分を買いに行くという生活でした。
もちろんスーパーも便利ですが、買い物かごをぶら下げ、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんと、お店を一軒一軒回っていると、まるでアニメのサザエさんになったような気分になり、そんな風にして歩いているうちに、その日の天気や気温、お店の人の呼び声によっても夕飯の献立が変わることもあります。
商店街の買い物によって体験できる、こうした日々のささやかな変化は、東京での生活の魅力の一つと言えるかもしれません。
その日は、朝からぐっと気温が上がり、いよいよ夏本番かな、と思うような日でした。夕方になって多少涼しくなった頃合いで買い物に出かけ、そうだ、今日は冷奴にしようと、前から気になっていたお豆腐屋さんの喜多村商店さんに行ってみることにしました。
喜多村商店さんは、商店街の坂道を登った外れにあり、小さなお店ですが、年季の入ったテントと「手作りどうふ」と描かれた旗が懐かしく、一度寄ってみたいと思っていたのでした。
お店を覗くと、奥から元気のいい奥さんの「はい、らっしゃい」の声。ガラスケースには、きつね色の油揚げと、厚揚げ、がんもどきが並び、揚げたての油のなんともいえない良い匂いが漂ってきます。
この厚揚げを、表面をかりかりに炙って大根おろしで食べたら美味しいだろうなぁ、いやいや、今日は冷奴だったと、お豆腐はどこにあるのか見回しました。
そこで初めて顔をあげて見ると、年配の温厚そうなお母さんと、その息子さん。私がなんと言おうか考えあぐねていたのを察したのか、お母さんのほうが、「今日は暑かったね。それでも夕方になっていい風が出てきたよね」と声をかけてくれました。
戸越は、東京のなかでもまだ下町の雰囲気が残ってはいますが、初めてのお客さんにもこんな風に声をかけてくれるということにちょっと驚きました。
嬉しくなって会話も弾みます。「そうですね、いよいよ暑くなってきましたね。今日は冷奴が食べたくなって」「はい、絹かな、木綿かな」「絹ごしを二丁」と言うやいなや、後ろにいた息子さんが、「はいよっ」と手際よく水槽のなかから絹ごし豆腐を出し、ビニール袋に入れてくれました。
お母さんが注文を聞き、息子さんが阿吽の呼吸で用意する、親子でこの店を大事に営んでいる様子が伺えます。
私が、「もうここでお店を出して古いんですか」と尋ねると、「そうね。もう50年以上かな」とお母さん。「へえ、すごいですね」と言いながら、この息子さんで三代目かな、今は母と息子で切り盛りしているのかな、と商店街のお豆腐屋さんの物語に想像を膨らませていました。
ふと見ると、手書きで「ところてん つきます」の文字。お豆腐の水槽の隣の大きなバケツに、透明の長方形のところてんが浮かんでいました。
私がところてんに目をやったのがわかったのか、「ここで天突きでついて出しますよ」とお母さん。昔、夏休みによく母が作ってくれたのを思い出し、「やあ、懐かしい」と思わず声が出ます。
天突きとは、ところてんを細長く切る道具のことで、固まったところてんを長方形の木製の枠のなかに入れ、棒で押し出すと、枠にはめ込んだ刃から細長く切れたところてんがつるりと押し出されてきます。
子どもの頃は、食べるよりも押し出すほうが面白くて、何度も母にせがんでは作ってもらったのを思い出しました。
木製の天突きという道具を知っている世代も少なくなっているのかもしれません。私がその世代と知ると、お豆腐屋さんのお母さんも、「懐かしいでしょう、うちではこの場でついて出しているんですよ」と嬉しそうに言います。天草を煮詰め、昔ながらの製法で作る本物のところてんを、これも昔ながらの道具の天突きを使ってその場でお客さんに出しているという、お母さんの言葉と表情には、長年続けてきた仕事に対する誇りのようなものが滲み出ていました。
お母さんが手際よく天突きでところてんを押し出し、私もまるで子どもの頃に戻ったみたいに身を乗り出してその仕草を眺め、勢いもうひとつ頼んでしまいました。
細長く切れているのに、切れたかどうかわからないくらい同じ形に押し出されてくる様子を見ると、昔棒寒天で作った母のところてんよりも、ずっと弾力があるのが分かります。
結局、喜多村商店さんでは、絹ごし豆腐以外に、ところてんと、厚揚げを二枚、さらに翌日朝のお味噌汁用の油揚げ二枚も買ってしまいました。
冷奴にした絹ごし豆腐は、大豆の香りが深く、そのまま食べてもお豆腐の味がわかるようなコクがあり、厚揚げも魚焼き機で炙ると、しっかりした皮がかりかりと香ばしく、なかはとろっとしたお豆腐。八百屋さんで買ったねぎを刻み、大根をおろして、生姜をすったのを添えて醤油で食べました。
そして、ところてんは、口に入れてもすぐ崩れるのでなく、適度な弾力があり、酢醤油とカラシがよく絡んで喉越しがツルツルっとしていました。
食後のデザートは甘いものや果物ばかりでなく、夏はやっぱりこれが美味しいねと、夫婦で子どもの頃の天突きの思い出話をしながらお豆腐やさんのお豆腐やところてんを懐かしく頂きました。
喜多村商店[WEB]