富士五湖の名前や位置、富士八湖の話
富士五湖の位置や広さ
富士山の周辺にある湖といえば、五つの湖を指す「富士五湖」が有名です。
富士五湖とは、山梨県側の富士山麓にある、河口湖(富士河口湖町)、西湖(富士河口湖町)、本栖湖(富士河口湖町、身延町)、精進湖(富士河口湖町)、山中湖(山中湖村)の五つの湖の総称です。
湖の名前の読み方は、それぞれ「河口湖(かわぐちこ)」「西湖(さいこ)」「本栖湖(もとすこ)」「精進湖(しょうじこ)」「山中湖(やまなかこ)」です。
富士五湖の位置は、富士山の西側から順番に、本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖、となります。
富士五湖の名前や位置に関して、地理の問題で出題される際の簡単な覚え方として、語呂合わせで何かないかと考えたのですが、あまりしっくり来る覚え方は思いつきませんでした。
本栖湖 も
精進湖 し
西湖 さ
河口湖 か
山中湖 や
ちょっと強引かもしれませんが、たとえば、「“もし酒屋”だったら、富士五湖付近で営みたい」などといった覚え方はいかがでしょうか。
また、富士五湖の面積を比較すると、山中湖が一番広く、大きい順に、山中湖(6.78㎢)、河口湖(5.70㎢)、本栖湖(4.70㎢)、西湖(2.10㎢)、精進湖(0.50㎢)となっています。
【面積ランキング】
①山中湖
②河口湖
③本栖湖
④西湖
⑤精進湖
富士五湖で一番広い湖が「山中湖」、一番小さい湖が「精進湖」です。
富士五湖は、それぞれの湖が観光名所としても人気で、特に河口湖は、一年を通して旅行客やキャンプをする人、釣り人などで賑わっています。
名前の由来
今では、すっかり観光名所として定着している「富士五湖」という総称。
しかし、そもそも、この「富士五湖」という名前の由来や、なぜ富士山の周辺の湖を「富士五湖」として括ったのか、といった背景は、あまり知られていません。
実は、この富士五湖という括りは、一見すると昔からあったように思えますが、「富士五湖」という名前で呼ぶようになったのは、割と近年になってからのことです。
富士五湖という呼び名は、昭和二年、富士急グループの創始者である堀内良平氏が、観光PRのために一括りにし、命名したものです。
この命名以前は、富士五湖の五つの湖に、三湖を加えた「富士八湖」が一般的で、江戸時代に成立した富士山信仰の一つである「富士講」の信者が修行のために訪れた巡礼地「富士八海」として知られていました。
昔の人は、厳密に湖や沼と言わず、「海」と表現していたのでしょう。
それでは、次に、現在の富士五湖も含め、富士五湖と括られる以前の「富士八海(富士八海)」の名前の由来や特徴などについて紹介したいと思います。
信仰の巡礼地としての富士八海
江戸時代、富士講の信者は、富士登山をして参拝(登拝)するのはもちろんのこと、登山の前に事前の禊の場としていくつかの霊場を巡礼していました。
これは、富士講の祖である戦国時代末期の修験者「長谷川角行」の修行に倣ったものと言われています。
巡礼にもいくつかあり、富士山頂の八つの峰を一周する「お鉢巡り」、富士山五合目あたりを一周する「御中道巡り」、富士山周辺の富士八湖をめぐる「内八海巡り」、また広く富士を囲む八つの湖をめぐる「外八海巡り」、それらを集約した形の「忍野八海(元八海)巡り」などが挙げられます。
この「八」という数字にこだわったのは、古来日本では「八」という数字は末広がりを表し、縁起の良い数字として好まれていたこと。
あるいは、仏教的にも、釈迦が悟りに至った修行の八正道や、釈迦が座していたと言われる八葉蓮華など意義のある数字だったことなども関係しているのかもしれません。
内八海
富士八海とは、一般的には、富士講の巡礼地のなかの「内八海」のことを指します。
内八海とは、①山中湖、②河口湖、③西湖、④精進湖、⑤本栖湖、⑥明見湖、⑦四尾連湖、⑧須戸湖(浮島沼)、のちに泉津湖(または泉瑞、泉水)の八つの湖沼のことです。
泉津湖の代わりに長峰池を入れる場合もあり、時代によって多少違いがあったようです。
また、それぞれの湖には、龍神(龍王)が住み、龍神信仰と習合する形で伝えられたと考えられます。
さらに、富士講のなかにも講派があり、湖を巡る順番も講派によって違いがあります。
ここでは、巡礼順に関係なく、湖と龍神を紹介したいと思います。
①山中湖〔山中湖村〕やまなかのうみ・・・作薬龍神
山中湖と富士山(画像)
山中湖は、富士五湖のなかでも、最大の面積(6.78㎢)を持つ湖で、標高も高く、富士五湖で唯一天然の川(桂川ー相模川)に流出する湖です。
山中湖と河口湖は、よく比較されることも多いですが、山中湖のほうが標高が高いので、気温は河口湖より1〜2度低く、特に冬場は、マイナス15℃くらいまで冷え込むこともあります。
また、山中湖と河口湖はどちらも観光地化され、人気の観光スポットですが、山中湖のほうが、どちらかと言うと会社の保養地やテニスの合宿所などが多く、全体的に静かな印象です。
1956年、北海道阿寒湖で有名なマリモの変種のフジマリモが最初に発見されたことでも知られています。
フジマリモは、その後、河口湖・西湖・精進湖・本栖湖でも発見されましたが、現在は環境変化に伴い激減し、絶滅危惧種に指定されています。
山中湖は、牛が伏せているような特徴的な形から、別名「臥牛湖」とも言われていました。
また、その昔、日照りが続き、飼っていた赤牛の喉がカラカラに乾いていたのを可哀想に思った村人が、湖水で水浴びをさせたところ、まもなく恵みの雨がもたらされたという伝説があったことが由来という話もあります。
②河口湖〔富士河口湖町〕かわぐちのうみ・・・水口龍神
河口湖と富士山(画像)
河口湖は、富士五湖のなかでは最北に位置し、最も長い湖岸線(19.08㎞)を持つ湖です。
天然の流出川がなかったので、古来、大雨による洪水の被害に度々遭いました。現在は、人工の放水路により、桂川の支流に流出するようになっています。
富士五湖のなかで最も早く観光開発された湖で、富士急行線の開通とともに、都心からのアクセスもよいことから、年間を通じて多くの観光客で賑わっています。
河口湖大橋の北側には、産屋ヶ崎という、噴火の溶岩でできた岬があります。
この産屋ヶ崎は、富士の神として知られている木花開耶姫が出産した場所として一般的に伝えられています。
しかし、祠には、木花開耶姫の息子である山彦と奥さんの乙姫が祀られているとあり、その乙姫が出産したと書かれてあります。
孫の出産に、木花開耶姫が産着を持ってお祝いに駆けつけたそうで、今でもこの付近には「孫見祭り」があるとのことです。
また、「河口」という名前は、相当古くから存在していたと言われています。
当町の町名は河口湖に由来しますが、この湖名の初見は古代にまで遡ります。平安時代の貞観6年(864)に富士山の噴火による溶岩流の一部が「河口海」に向かったと『日本三代実録』に記されています。また、河口の地名は、『延喜式』にも記され、東海道の支路・甲斐路に置かれた河口駅の遺称です。
③西湖〔富士河口湖町〕にしのうみ・・・青木龍神
西湖と富士山(画像)
西湖は、富士五湖のなかでは4番目の大きさですが、それほど観光地化が進んでいないため、湖の周辺も含め、手付かずの自然に触れることができるのが特徴です。
西湖の南側には、噴火によってできた青木ヶ原樹海が広がり、周辺は風穴や氷穴など貴重な天然資源に溢れています。
また、2010年には、それまで絶滅したと思われていたクニマスが70年ぶりに西湖で発見され、話題になりました。
西湖の成り立ちを調べると、もとは、本栖湖、精進湖とともに「せのうみ」という大きな一つの湖だったと言われています。
富士山の火山活動で流れ出た溶岩流により、まず本栖湖がせき止められ、次の噴火で西湖と精進湖が誕生しました。
貞観6(864)年7月17日辛丑、甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗の海を埋めてしまった。
湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。
本栖海や剗の海が焼け埋まる前には、大地が大きく揺れ、雷と大雨があって、雲霧が立ちこめて暗闇に包まれ、山野の区別もつかなくなった。それらが起こった後にこのような災異が訪れたのだ。
もともと一つの湖だったという成り立ちから、この三つの湖は地下で繋がっていると考えられ、その証拠に水面の標高が三湖とも同じだそうです。
西湖には流出する川はありませんが、近年、河口湖への放水路ができ、増水時に西湖から河口湖に放水すると、本栖湖、精進湖ともに水量が減り、三湖が平均の高さになるようです。
西湖の湖底には、浅い瀬があり、美しい石があったことから、かつて「石花湖」とも呼ばれていました。
この呼び名は、万葉集のなかにも出てきますが、「石花海」と書いて「せのうみ」という読んでいたので、西湖が噴火によって分断される前の大きな湖の名残からの呼び方なのかもしれません。
青木ヶ原樹海には、「竜宮洞穴」という溶岩でできた穴があり、富士講の人々も巡礼に訪れていたようです。
竜宮洞穴からの眺め(画像)
④精進湖〔富士河口湖町〕しょうじのうみ・・・出生龍神
富士山と精進湖(画像)
精進湖は、面積が0.5㎢と、富士五湖のなかでは最も狭い湖です。
精進湖から見る富士山は、手前にある大室山が子供のようで、その子供を抱えた「子抱き富士」が撮影スポットとしても有名です。
観光地としてはあまり開発が進んでいないことから、自然がそのまま残っている湖でもあります。
精進湖の名前の由来は、富士講の人々が、「この湖を訪れ、身を清めて精進した」ことから名付けられたと言います。
精進湖の近くには「赤池」という、数年に一度、湖面が現れる幻の池があります。地下で繋がっている精進湖が、長雨の影響で増水したときなどに現れます。
この赤池も含め、富士五湖は実は「富士六湖」だったという人もいます。
⑤本栖湖〔富士河口湖町、身延町〕もとすのうみ・・・古根龍神
本栖湖と富士山(画像)
本栖湖は、富士五湖のなかで一番水深が深く、透明度も高いことが特徴の湖です。
富士山の北西に位置し、現行1000円札に用いられている富士山の図案も、ここから眺めた富士山の姿です。
本栖湖の南側には、小富士と呼ばれる「竜ヶ岳」という山があります。
龍ケ岳の名前の由来には、かつて富士山の噴火で流れ出した溶岩のあまりの熱さに、湖に棲んでいた龍が、この山に逃げ込んだという伝説があります。
また、ある日、龍が現れ、「富士山が噴火する」と村人に告げ、竜ヶ岳の山頂に昇っていった、といった話も残っています。
この龍というのが、湖に宿っているとされる龍神の古根龍神のようです。
本栖湖という湖の名前の由来は、このお告げのとき、噴火を恐れた村人が山を越えて避難し、噴火が収まってから戻り、もう一度この地、「元の巣」で暮らす決意をした、ということから「本栖湖」と名付けられたという言い伝えがあります。
⑥四尾連湖〔市川三郷町〕しびれのうみ・・・尾崎龍神
四尾連湖は、富士山からは少し離れ、精進湖から西に30㎞ほど、市川三郷町の蛾ヶ岳という山の山頂付近にある湖です。
その成り立ちは、噴火によるカルデラ湖とも陥没湖とも言われています。
また、中国の蛾眉山からその名前をとったと言われている蛾ヶ岳の頂上からは、南に富士山を望むことができ、神秘的な四尾連湖とともに、知る人ぞ知る景勝地となっています。
湖畔にはキャンプ場もあり、手付かずの自然を満喫することができます。
四尾連湖は、かつては志比礼湖とも、神秘麗湖とも書かれていましたが、四つの尾を連ねた龍神が住むという伝説から、次第に「四尾連湖」と書かれるようになります。
四尾連湖には、その昔、干ばつの折に、兄弟の侍がこの湖に棲む怪牛を自らを犠牲にして退治したところ、まもなく大雨が降ったという伝説があり、干ばつの際には、牛骨を沈めて祈願するという雨乞い信仰も伝わっています。
また、湖に至る途中の山道に「浄身石」という石がありますが、その昔、富士山の噴火を逃れた木花開耶姫がこの場所で産気づき、石に座って流れ出る湧水で身を浄めたとの言い伝えも残っています。
⑦明見湖〔富士吉田市〕あすみのうみ・・・清氏龍神(明見龍神)
明見湖は、富士吉田市にある小さな湖で、約2万株の蓮の花が自生していることから、「はす池」とも呼ばれています。
その成り立ちは、縄文時代まで遡り、富士山の噴火による堰き止め湖と考えられています。
かつては「阿栖湖」とも書かれていました。
名前の由来は、この地域を「阿曽谷」と言い、湖を「阿曽海」と言ったものが「あすみ」に転じたという説、富士山が噴火したとき煙がひどく、ものが見えなくなり、「明日になったら見よう」という意味で名付けられたという説。また、その昔、富士山を「アソヤマ」と呼んでいたときに、「アソ」を見る地、アソミから、アスミになったという説など、諸説あります。
富士山を多く描いた葛飾北斎もこの地にて描いたと思われる『阿須見村の不二』と題した絵を遺しています。
また、興味深い伝承として、この地域には、秦の始皇帝の家臣である「徐福」伝説が伝わっています。
徐福とは、始皇帝の命を受けて不老不死の薬を探しに東国に渡ったとされている人物で、日本各地に徐福がいたと伝えられている場所が残っています。
明見地域もその一つで、明見湖の近くに徐福公園や徐福の墓とされる祠もあり、古代のロマンに思いが膨らむ神秘的な湖です。
⑧泉津湖(泉瑞または泉水)〔富士吉田市〕せんづのうみ・・・御手洗龍神(仙水龍神)
泉津湖とは、富士吉田市にあった湧水池です。
富士山の雪解け水が湧水として湧き出てていたと言われていますが、残念ながら現在は枯渇して見ることはできません。鳥居と小さな祠があり、富士講の人々の祈りの場が偲ばれます。
ここには、鎌倉時代、頼朝が富士北麓で狩りをした際、喉を潤そうと、神に祈って岩をむちで打ったところ、こんこんと水が湧き出したという言い伝えが残っています。
須戸湖(浮島沼)すどのうみ〔静岡県沼津市、富士市〕
須戸湖は、静岡県沼津市と富士市に渡る湖です。江戸時代初期の頃は、富士八海に泉津湖ではなく、この須戸湖(浮島沼)を入れていました。
須戸湖の場所は、浮島沼という湖沼とされていますが、現在は干拓されています。
江戸時代にすでに陸地化したため、上記の泉津湖を加えて八湖としたようです。
長峰池〔山梨県上野原市〕
また、別の史料で、富士八海に長峰池を加えるという説もあります。
長峰池は、上野原市、旧甲州街道の野田尻宿にあったとされる小さな池です。現在は中央高速道路の下になっていますが、街道沿いに「お玉ヶ井」と言われる井戸の碑があり、次のような伝説が残っています。
野田尻宿の恵比寿屋という旅籠にお玉という美しい女中がいて、長峰池の主である龍神に恋をし、その恋が実ったお礼にと、水不足に悩む宿場に澄んだ水を湧き出させました。お玉自身が、長峰池の龍神だったとも言われています。
お玉ヶ井の碑の近くには、富士講の碑もあるので、江戸から甲州街道を経て、富士山に向かう途中で巡礼したと思われます。
忍野八海
忍野八海とは、忍野村にある富士山の雪解け水の湧水群です。
国の天然記念物として、また、富士山世界文化遺産の構成資産としても認定され、富士五湖と並び、国内外から多くの観光客が訪れる人気の名勝地です。
富士講においては、忍野八海巡りを「元(小)八海巡り」とも言い、内八海とともに富士登拝の前の修行の場としていました。
現在では観光地化が進み、元々の巡礼の意味合いは薄くなっていますが、そのあまりにも清らかな湧水に神秘的な力を感じる人は多いのではないでしょうか。
忍野八海には、仏教が習合された形で信仰が伝えられ、法華経に登場する八大龍王が祀られています。
また、それぞれの池に伝説が伝わり、村の人々が富士山からの神秘の恵みである清らかな湧水を大切に代々繋いできたことがわかります。
①出口池・・・難陀龍王
出口池は、忍野八海のなかでは一つだけ離れた場所にあり、1467㎡と一番面積の広い池です。周辺にはお店もなくひっそりとしているので、自然な忍野八海の風景を見ることができます。
忍野八海がある忍草集落の出口にあたるところから、出口池と名付けられました。
この池の湧水は「清浄な霊水」と呼ばれ、富士山を目指す行者たちはここで穢れを祓い、この水を携えていくと無事に登山ができるという言い伝えがありました。
このような理由から、別名を精進池といいます。
②御釜池・・・跋難陀龍王
御釜池は、御釜で沸騰するように水が湧き出ていることが名前の由来になっています。忍野八海のなかでは、広さ24㎡と一番面積の狭い池です。
その昔、老父と美しい娘姉妹が住んでおり、池から現れたガマガエルに妹が引き込まれ、いくら探しても遺体すら浮かんでこなかった、という悲しい伝説が伝わっています。
この伝説から大蟇池とも呼ばれています。
③底抜池・・・娑迦羅龍王
底抜池は、楕円形をした池で、底に泥が堆積し、この池に落とし物をすると行方が分からなくなると言われていました。
そんなことから底抜池と言われるようになり、この池で洗い物をすると神の怒りに触れると語り継がれています。
④銚子池・・・和脩吉龍王
銚子池は、形が銚子に似ていることからその名がつけられました。
この池に身を投げた花嫁の悲しい伝説が伝わっていますが、今では逆に「縁結びの池」として知られているようです。
⑤湧池・・・徳叉龍王
湧池は、読み方が「わくいけ」と言い、忍野八海を代表する池で、湧水量も多く水車小屋があり、土産物店も多く並んでいるので、いつも観光客で賑わっています。
昔、富士山が噴火した際に、人々が熱風と渇きに苦しむ姿を見て、「私を信じ、永久に敬うなら水を与えよう」と、水を湧き出させたのが木花開耶姫だと言われています。
現在でも、木花開耶姫の祭(毎年9月19日)のときには、湧池の水で神輿を浄めています。
⑥濁池・・・阿那婆達多龍王
濁池は、湧池の隣にある楕円形をした小さな池です。濁池という名前ですが、元々は村人の飲料水だったと言われています。
ある日、みすぼらしい身なりをした行者が一杯の水を求めたところ、家の老婆が断った途端水が濁ってしまったとのこと。しかし、その濁り水を汲むと澄んだ水に変わったと伝えられています。
⑦鏡池・・・摩那斯龍王
鏡池は、読み方は「かがみいけ」と言います。風のないときには水面に逆さ富士がきれいに写し出されることから、鏡池と呼ばれています。
この鏡池は、すべての善悪を見極める力があり、村で揉め事があると争っている双方がこの水で身を清め祈ったと言われています。
⑧菖蒲池・・・優鉢羅龍王
菖蒲池は、鏡池の東にある細長い形をした池です。その名前の通り、菖蒲が生い茂り、夏には美しい花を咲かせます。
昔、重い病に苦しむ夫のために、この池の水で身を清め一心不乱に祈った妻が、神のお告げ通り、この菖蒲を夫の体に巻きつけると、夫が全快したという言い伝えがあります。
この地域では、悪疫が流行ると菖蒲を身に巻きつける風習があるそうです。
外八海
富士講の人々は、富士登拝の前に、一般的に内八海か元八海を修行の場として訪れ、身を清めたと言われています。
しかし、内八海、元八海以外に、特例として、外八海を巡礼することもありました。
外八海は、富士山より遠く、関東地方や近畿地方にまで及んでいました。
特例としていたのは、あくまで信仰の対象である富士山からの清水で修行することを重んじていたということ、また、外八海は範囲が広く誰でも修行に行ける距離ではなかったということが考えられます。
外八海の選定にあたっては、富士山を拝むために、富士山が見える可視域を考慮していたのかもしれません。しかし、直接見えない場所では、榛名富士や下野富士など郷土富士と呼ばれる山を富士山になぞらえ、その近くの湖で禊の修行を行ったのではないでしょうか。
さらに、外八海それぞれの湖に独自の龍神伝説があり、それが富士山信仰と結びついて巡礼地として選定されていったのではないかと思います。
①二見浦〔三重県伊勢市〕 湖ではなく海岸
二見ヶ浦は、三重県伊勢市にある海岸で、湖ではありませんが、角行が水行を行なったとされているところです。
特に、夫婦岩と呼ばれる二つの岩から望むことができる富士山は有名で、現在においても多くの人が訪れる観光地になっています。
近くにある二見興玉神社には、本社境内の中に龍神を祀る龍宮社があります。
②琵琶湖〔滋賀県〕
琵琶湖は、滋賀県にある日本一広い湖です。琵琶湖にある竹生島という島に龍神を祀る神社があり、現在でもパワースポットとして人気があります。
竹生島から富士山が見えるかどうかはわかりませんが、竹生島は富士山と出雲大社を結ぶ線上に位置し、古来神が宿る島と言われていました。
③諏訪湖〔長野県諏訪市〕
諏訪湖は、長野県諏訪市にある湖です。諏訪大社に祀られている神が、龍に化身して出雲国に行ったという龍神伝説が伝えられています。
また、葛飾北斎の富嶽三十六景にも、『信州諏訪湖』という諏訪湖から眺めた富士山の絵があります。おそらく諏訪湖の水で身を清めた人々が富士を拝したのではないかと思われます。
④榛名湖〔群馬県高崎市〕
榛名湖は群馬県高崎市にある湖で、榛名山の噴火活動によりできたカルデラ湖と言われています。榛名山も古来山岳信仰の対象の山とされてきました。
榛名湖には武将の妻が夫の後を追い入水したのち龍神になって、雨をもたらすという伝承があり、雨乞い信仰が誕生しました。
それが榛名山信仰と結びついた形で、江戸時代には富士講とは別の、榛名神社にお参りに行く「榛名講」として主に関東一帯に広まったようです。
また、榛名湖からは「榛名富士」(1390m)と言われる富士山によく似た山が見え、その山頂には榛名富士三神社という神社があります。そこには、富士山と同じ木花開耶姫が祀られていて、富士講の人々はこの神社に訪れていたようです。
⑤中禅寺湖〔栃木県日光市〕
中禅寺湖は栃木県日光市にある湖で、男体山の噴火活動によってできた堰き止め湖と言われています。
男体山もその形が富士とよく似ていることから「下野富士」と呼ばれ、古来神が宿る山として山岳信仰の修行の場でもありました。
⑥桜ヶ池〔静岡県御前崎市〕
静岡県御前崎市佐倉にある池で、平安時代比叡山の僧が弥勒菩薩に教えを乞うと言い残し桜ガ池に身を沈めて龍神になったとの伝承があります。
遠州七不思議の一つとして、語り継がれ現在でも「お櫃納め」という神事として残されています。富士講では桜ヶ池を佐倉湖と呼び、禊の場としていました。
⑦霞ヶ浦〔茨城県〕
霞ヶ浦は、茨城県にある湖で、琵琶湖に次ぐ日本で2番目に大きい湖です。湖とは言っても、平安時代までは太平洋に続く内海でした。その後、土砂などが堆積し、現在のような湖の形になったようです。
霞ヶ浦周辺には古くから龍神信仰が伝わり、龍ヶ崎や龍が峰など、「龍」がつく地名が数多くあります。
また、霞ヶ浦からは富士山が見え、葛飾北斎も富嶽三十六景の中に『常州牛堀』という絵を描いています。
⑧芦ノ湖〔神奈川県箱根町〕
芦ノ湖は、神奈川県箱根町にある湖です。箱根山の噴火活動に伴って造られた堰き止め湖です。
富士箱根伊豆国立公園の一角をなす景勝地で、昭和に入り急速に観光化が進んだ地域です。
芦ノ湖は、外八海の中では富士山に最も近く、富士講の人々が礼拝に訪れた石碑が数多く建てられています。
また、龍神伝説も多く、特に箱根神社に伝わる九頭龍伝説は有名です。
芦ノ湖に棲む九つの頭を持った毒龍が村人たちを苦しめたので、万巻という僧侶が調伏したところ、心を入れ替えて龍神となったと言われるものです。九頭龍神社は、その龍が守護神として祀られています。
まとめ
以上、富士五湖も含めた富士八湖(富士八海)の名前の由来や特徴、歴史などについてまとめました。
庶民が旅行をすることが一般的ではなかった時代、旅は信仰の修行の一つとされていました。富士八海は、江戸時代、爆発的に流行した富士講によって崇拝する富士山とともに知られていったのです。
それぞれ富士八海に伝わる信仰の形も、日本古来の富士山信仰や龍神信仰、仏教の教えなどと混ざり合って強化され、また、ときの政権の影響を受けていくつかの変遷をたどりました。
しかし、密かに庶民の暮らしのなかに生きづいてきた大いなる自然への畏敬の念は、祈りの形として代々語り継がれ、遺されてきたのではないでしょうか。