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武田信玄の銅像から見る顔
武田信玄の顔というとどんな顔を思い出すでしょうか。
騎馬隊が有名で「甲斐の虎」と呼ばれ、戦国最強とも言われた武田信玄、でっぷりとして剛毅なイメージを持つ人も多いのではないかと思います。
武田信玄像は山梨県内には数カ所あり、それぞれの顔は似ているようで微妙に違っています。
今回は、そんな信玄像をもとに父・信虎や息子・勝頼の銅像とも比較しながら、信玄の顔について紹介したいと思います。
*ちなみに、銅像のモデルとなった信玄の肖像画については諸説あり、近年の研究では実際の信玄を描いたものではないのではないかとも言われています。
①JR甲府駅前(甲府市)
山梨県民なら、まずJR甲府駅前にある武田信玄の銅像を思い出すのではないでしょうか。待ち合わせでも、よく「信玄さんの前で」と言って待ち合わせますし、山梨観光定番の撮影スポットの一つにもなっています。
この銅像は1969年4月12日に完成。始めは旧甲府駅前広場の噴水の前にありましたが、1985年11月に駅前広場の整備とともに現在の南口の場所に移されました。
駅から徒歩1分とすぐ近くにあります。
右手には軍配、左手には数珠を持って、威風堂々とした様子で腰を下ろしています。
恰幅の良い体格、立派な口ひげ、いかにも強面の武将顔。信玄と言ったらこの顔が印象的です。
実際に見ると、その大きさが、そのまま県民にとっての信玄の大きさを物語っているようです(銅像の高さは、座った状態にもかかわらず3.1mもあります)。
銅像ができた頃、「この信玄さんは天下統一を目指して、京の方角を向いているんだ」という噂を耳にしました。
遠くを見つめるような眼差しで、方角的には南を向いているようですが、その先が果たして京なのか。甲府市役所の観光課の人に伺いましたが、その点は不明とのこと。都市伝説の一つだったのかもしれません。
この銅像自体は有名な「川中島の戦い」の一場面を描いたもので、宮地寅彦さんという彫刻家の方が作者です。
②食事処「信玄館」(甲州市)
次に紹介しますのは、甲州市塩山にある武田氏の菩提寺、恵林寺(えりんじ)近くの食事処「信玄館(しんげんやかた)」の信玄像です。
食事処と土産物品店を兼ねた「信玄館」の前庭に立っているこの像、どう見ても甲府駅前の信玄像にそっくりです。
台座が少し低い分、顔も近くで見ることが出来ますが、本当に瓜二つ。
そこで、「信玄館」の社長さんに伺うと、この像は甲府駅前の像を作る際、最初に作られた銅像の原型だったとのこと。
甲府駅前の銅像が完成した後、この原型だけの像が韮崎市の「武田八幡宮」に奉納してあったのを、先代の社長が譲り受けて店頭に設置したと言います。
信玄館[web]
この信玄さんも京都の方を見ているのかと思いきや、恵林寺の自身の墓の方を向いているとのこと。恵林寺は武田氏の菩提寺で、信玄や家臣の墓があります。
※信玄の墓は他何カ所かあります。
また、境内の宝物館には武田家に伝わる貴重な品々が展示してあり、国指定の名勝である庭園や重要文化財の赤門と共に歴史をしのぶことができる観光名所のひとつです。
③JR塩山(えんざん)駅前(甲州市)
次に甲州市のJR塩山駅前にある信玄像です。
この銅像は1988年に制作されたもので、作者は日展作家としても活躍する喜多敏勝さんです。
兜と鎧を着けていないからか少しリラックスして見えます。とはいえ、顔はいかめしく、左側に太刀を携えているところは、常に戦闘態勢だった様子を思わせます。
前の二体と比べると服装は違いますが、恰幅の良いところや顔つきなど全体的な雰囲気は似ています。
甲州市の人に聞くと、この信玄さんもやはり京の方を向いているといわれています。そう思って見ると遥かかなたを見据えるその眼に鋭い光さえ宿っているような気がしてきます。
④風林火山響きの里(笛吹市)
「風林火山響きの里」は、笛吹市石和町にあるレストラン兼お土産物屋さんです。
風林火山響きの里[web]
ここにある信玄像は日本一大きい信玄像と言われています。いわゆる観光用に作られたもので、銅像ではなくFRP(繊維強化プラスチック)でできているそうです。
山梨でも指折りの温泉地石和温泉郷の一角にあり、食事をしながら太鼓ショーを観ることができる名所になっているようで、いつ行っても多くの観光客で賑わっています。レストランの前で、ドーンとお出迎えする信玄像は絶好の写真撮影スポットになっています。
制作は1988年頃とのことですが、お店の人も代が替わり、モデル等詳しくは分からないようです。お店の人曰く「甲府駅前の銅像よりこちらの方が若干内股なんです」とのこと。
よく見ると、確かにそう見えます。
基本的には甲府駅前の信玄像と似ていますが、顔つきはこちらのほうが若干険しい感じもします。甲府駅と同じように川中島の戦いの渦中だったとすれば、一進一退の戦況にいら立ちを覚えていたのかもしれません。
この信玄像も店舗の変化に伴い、設置場所が二転三転したようで、向きはあまり意識していないようですが、お店の人は「この方角だと富士山の方ですかね」と話していました。
⑤中央自動車道双葉サービスエリア上り内(甲斐市)
中央道双葉サービスエリアには、レストランと土産物コーナーの間にこの像が飾られています。
突如現れる僧侶姿のこの像に観光客も一瞬びっくりするようですが、近くに寄って武田信玄だとわかるとなぜかホッとして、一緒に写真撮影したりするようです。
高速道路のサービスエリアらしく、交通安全も兼ねてか、この信玄さん数珠を首にかけています。
支配人に伺ったところ、サービスエリアができた2005年頃どこからか譲り受けたそうですが、以前の設置場所は不明ですが、男性4~5人でやっと運び込んだとのこと。「そうはいっても、人の力で運べるので、素材は軽いものですよ」と話していました。

甲州市塩山駅の銅像に似ていますが、こちらの方が少し細面のような気がします。
そして、戦闘態勢というより何か憂いているような顔つきです。増加する交通事故を案じているのでしょうか。
山八幡神社(甲府市)
銅像ではありませんが、こちらは甲府市にある山八幡神社の木製の信玄像です。
はっきりした制作年や作者は不明ですが、神社の周辺が商業地域だったことから、商売繁盛の願いを込めて明治時代から大正時代初期までには作られていたものだそうです。
昭和20年の甲府大空襲の折、神社の土蔵に保管されていて難を逃れたこの信玄像は、2015年に数十年ぶりに公開されました。かつては神社の例祭にこの像を掲げて行列を行うなど街中が賑わったそうです。
一説には、この像が甲府駅前の信玄像のモデルにもなったといわれていますが、少し面影が違うような気もします。
甲府駅前の銅像より少し若く、また引き締まった顔に見えます。
山梨県民でもあまり見たことがないと思われるこの木製の像、2020年3月までは甲府駅北口ペデストリアンデッキで行われている「こうふ開府500年記念展示」で無料で見ることができます。

武田信虎、武田勝頼の像
郷土を代表する英雄武田信玄の像は、このように県内にいくつかありますが、微妙な差こそあれ、恰幅も良く眼光鋭く一歩も引かない強い意志のようなものを感じる顔立ちです。
一方その信玄に比べてはるかに影の薄いのが父・信虎と息子・勝頼です。
いかに影が薄いかというと銅像の数も違いますが、まず制作された年代が違います。
勝頼像は2002年にJR甲斐大和駅に、信虎にいたっては2018年になってやっとJR甲府駅北口に銅像が設置されました。信玄の銅像に遅れること何と50年です。
信虎は信玄に甲斐の国から追放された暴君のイメージがあり、また勝頼は武田氏を滅ぼした悲運の武将としてどちらも県民の中に待望論がなかったのかもしれません。
しかし近年、ふたりに対する歴史的評価も少しずつ変わり、銅像設置の運びとなりました。
武田信虎像、JR甲府駅北口(甲府市)
武田信虎は、多くの有力豪族が入り乱れていた甲斐の国を統一し、甲府城下町を造り、武田氏の基盤を築いた人物として現代では再評価されています。
甲府を開いたその功績を讃えようと開府500年を前にして、2018年12月甲府駅北口広場に設置されました。作者は山梨在住の造形作家の河野和泉さんです。
信玄に比べるとだいぶ華奢な体つきですが、眼は鋭く見開き、富士山の方を見ているとのこと。長く隠居生活を送った駿河に思いを馳せているのでしょうか。
1541年信虎は息子・信玄に駿河の国へ追放されてしまいます。
この追放劇については、長年の親子の確執があったとか、家臣の心が離れるほど信虎が暴君だったとか様々言われています。
しかし、追放されたといっても娘の嫁ぎ先である駿河の今川義元のところ。さらに、現在のお金に換算して年間約1億円相当の隠居料も与えらたようで、甲斐の国より気候の暖かい駿河での暮らし。また、たまには京の都での暮しも満喫したらしく、ましてや81歳と信玄より長生き。案外不幸な余生ではなかったのかもしれません。
そうはいっても、生前は二度と甲斐の国には戻れず、最期は三男の居城である信濃の高遠城で亡くなったそうなので、開府500年のこの時晴れて甲府の地に戻って来ることができ、きっと信虎も感慨深く甲斐からの富士を眺めていることでしょう。
武田勝頼像、JR甲斐大和駅(甲州市)
偉大な父の跡を継いだ武田勝頼。父の死後、領土を広げるべく奮闘しましたが、有名な「長篠(ながしの)の戦」で織田・徳川連合軍に負けた後は、次々と家臣からの裏切りに遭い、非業な最期を遂げた悲劇の三代目として知られています。
この銅像は、勝頼終焉の地である景徳院田野寺の最寄り駅であるJR甲斐大和駅の駅前ロータリーに2002年に設置されました。
武田氏を滅ぼしたことで、偉大な父親を越せなかった無能な後継者のイメージがありますが、実は武田氏の領土は勝頼の時代が一番広かったとか、最近はその領国支配も再評価されつつあります。

いずれにしても、武田氏滅亡時の当主ということで顔もどことなく寂しげで、銅像は父や祖父に比べてひっそりとした感じがします。
まとめ
以上、武田信玄を中心に山梨県内にある銅像をめぐりながら信玄の顔を比べてみました。
どの信玄も、はっきりとした太い眉、カッと見開いた眼、大きな鼻、堂々とした体格とまさに英雄の風格あふれる姿でした。
そこには、歴史上の解釈はともかく、郷土の人々に愛され続けてきた英雄、武田信玄に対する山梨県民の尊敬の念が表れているような気がします。
