宮沢賢治の遺書
今秋、山梨県立文学館で開催された「宮沢賢治展 ようこそイーハトーブの世界へ」を見学しました。
展示会全体の感想については以前の記事に書きました(宮沢賢治の手紙と信仰)が、そのなかでもっとも心に残ったものの一つが、宮沢賢治が両親に宛てて残した直筆の「遺書」の展示です。
遺書といっても、亡くなる直前に書いたものではなく、彼が亡くなる2年前に認められたものでした。
宮沢賢治というと死後、愛用のトランクの中から遺稿『雨ニモマケズ』の記された手帳が発見されましたが、実はそのトランクのなかには賢治が認めた二通の遺書も併せて遺されていました。
一通は両親(宮沢政次郎・イチ)宛て、もう一通は弟妹(宮沢清六・岩田シゲ・宮沢主計・クニ)宛てでした。
遺書が書かれたのは、1931(昭和6)年、9月21日。ちょうど亡くなる二年前のことです。
当時、賢治は東北砕石工場の技師となって東奔西走、激務に次ぐ激務。工場の景気回復のため、販路拡大を図り上京していたときでした。
賢治の書簡集を紐解くと、東京で病に倒れる前後の賢治の様子を伺い知ることができます。
賢治は上京する夜行列車の車内で悪寒を感じ、神田駿河台の旅館、八幡館で肺炎を起こし倒れてしまいます。
八幡館で療養中、ときには39度にもなる高熱をおしてまで仕事の手配をし、工場長の鈴木東蔵氏に手紙で状況を報告しています。
元来病弱だった賢治は、このとき自らの死を覚悟し、家族に二通の遺書を書いたのでした。以下はそれぞれの遺書全文です。
弟妹宛て
《清六様》
たうたう一生何ひとつお役に立てずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
どうかこの我儘者をお赦しください。
賢治
清六様
しげ様
主計様
くに様
両親宛て
《父上様 母上様》
この一生の間どこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいたゞきながら、いつも我儘でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。
どうか信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日
賢治
父上様
母上様
詳細
県立文学館の展示では、二通のなかの両親宛ての遺書が展示されていました。
旅館、八幡館の便箋に書かれた遺書は、病床にあってもおそらく居住まいを正して書いたのではないかと思われる、「父上様、母上様」の文字のなかに、死期を悟った病床の賢治の様々な思いが感じられ、胸に迫ってきます。
自らの理想を求めて模索し続けた賢治が、その夢半ばで死を覚悟せざるを得なかった無念さ。
さらに両親にとっては、大切な娘トシに続き、賢治までも失うわけで、心優しい賢治がそのことに思いを馳せて綴っているだろうことを考えると、思わず涙がこぼれました。
唯一救われるのは、法華経を信仰していた賢治が生命の永遠を信じ、次の生、その次の生について触れている点です。
賢治自身もそこにかすかな光を見出し、これから訪れる死についても大いなるものに帰伏するような思いで臨んでいたのではないでしょうか。
死を覚悟してまで書いた二通の遺書でしたが、賢治は結局投函することはなかったようです。
そのことは、賢治の病状を心配する東京の友人や工場の鈴木東蔵氏に、決して家族には知らせないでほしいと言っていることからも伺えます。
その後
しかし、八幡館で数日にわたって療養するも症状は日に日に悪化し、9月27日、賢治は「もう私も終わりと思いますので、最後にお父さんの声を聞きたくなりました」という電話を花巻の父にかけます。
驚いた家族が急いで手配をし、その日のうちに急遽夜行列車で帰郷することになったようです。
賢治はその後、亡くなるまでの二年間、花巻の自宅で療養生活を送り、詩や童話を書いたり、『風の又三郎』や『銀河鉄道の夜』などの加筆をしたりしていました。
しかし、再び急性肺炎を発症、1933(昭和8)年、9月21日、37歳で亡くなりました。
奇しくも遺書を綴った二年後の同じ日に息を引き取っています。
遺書は、トランクのポケットに入れたままになっていましたが、賢治が亡くなってから弟の清六氏によって手帳とともに発見されました。直筆原稿は現在岩手県花巻市の「林風舎」が所蔵しています。
林風舎とは、賢治の弟、宮沢清六さんの孫にあたる和樹さんが経営するカフェで、賢治の一族がゆかりの物を紹介する場として開設されました。
林風舎【web】