甲府の名所、武田信玄生誕の地「積翠寺」散策
甲府市が企画した『武田家の子孫と巡る! 信玄公生誕の地・積翠寺』散策ツアーに参加したので、この記事では、そのときの様子や感想を紹介したいと思います。
今年は、武田信玄生誕500年にあたり、甲府市も、山梨県も、色々なイベントを企画しています。その一つが、先日、県立博物館で行われた、県企画の武田信玄に関する記念講演会です。
講演会の講師は、上越市公文書センターの福原学芸員さんで、講演のテーマは、「上杉氏にとっての川中島合戦」でした。学芸員さんは、「敵方に囲まれ、緊張しています」と冗談っぽく笑っていました。
史料の解析は、久しぶりに大学の歴史の講義を聴くようで、興味深く、初めて聴くようなこともありました。
たとえば、川中島は、これまで大きな争いは5回と言われていたものの、近年の研究によってさらに追加された争いもあったという話。
また、そもそもが武田信玄と上杉謙信の国境認識の違いが戦いの根本的な原因にあり、最終的に、飯山城周辺を境に両者がバランスを取ったといった話などもあり、以前、観光を兼ねて飯山城を訪れたとき、そういえば名物に謙信寿司というのがあったなと、滋味溢れる笹寿司の味が、ふと蘇ります。
きっとあの辺りは、いまだに上杉文化が色濃く残っているのでしょう。
この県企画の講演会の他に、もう一つ、この記事で紹介する「散策ツアー」があり、こちらは市の企画で、県立博物館のほうも倍率が凄く人気でしたが、甲府市の散策ツアー企画も、電話のみの申し込みが、あっという間に締め切りになったそうです。
実際、私も、朝9時の申し込み開始と同時に電話したものの、10回以上のトライでやっと通じ、それも最初は別の企画「要害山城」登城ツアーに参加したかったのに、すでに満杯で、積翠寺の方にしたほどでした。
積翠寺の散策ツアーには、歴史にあまり興味のない夫も、運動のためと一緒に参加。結果的に、往復一万歩以上歩いたので、かなりの運動になったと思います。
それも平坦な道のりでなく、アップダウンが思ったよりもあり、当初希望していた要害山城はもっと険しい、いわゆる登城なので、逆に今回は外れて良かったかもしれないと、終わってからちょっと安堵しました。
散策ツアーは、朝9時に、武田神社前の信玄ミュージアムを出発し、積翠寺まで約3時間のコース。事前に終了時刻は前後するかもしれないとの告知がありました。
9時の出発、15分前くらいに信玄ミュージアムに着くと、物々しく「信玄公生誕500年」の旗が立てられ、すでに何人も集まっていました。
スタッフに混ざって、オレンジ色の法被を着た人が数人いて、よく見ると「武田家旧温会」と書いてあり、それぞれ「家臣◯◯の子孫」と書いてあったので、信玄公だけでなく家臣の末裔も含めて、「武田旧温会」を組織しているようです。
そのなかに、武田信玄公末裔、17代目当主と書かれた法被を着た人が一人、少し離れたところにいました。
他の旧温会の人よりはずっと若く、小柄な体格の人で、落ち着いた風格が感じられます。そういえば、以前新聞だったかで、武田信玄の次男の末裔が、東京から移住し、甲府市役所に勤務しているという話を聞いたことがあり、その人なのかもしれません。
45人の定員は、密を避けるため3つのグループに分けられ、私たちは、一班でした。
各班にガイド役の人と、武田旧温会の人、市役所のスタッフが付き、一班のガイドは、帝京大学文化財研究所の数野雅彦さん、旧温会は信玄公の末裔の武田さんでした。一班のメンバーは、ほとんどが女性で、年代的にはおそらく私たちより少し上の先輩たちだったように思います。
予定通り、9時に信玄ミュージアムをスタート。武田氏館跡の東側大手門跡を通り、北東の方向、「竜が池」を目指します。
武田神社は、入り口が南側なので、てっきり館もそちらが正面かと思っていましたが、館の正式な玄関は、東側の大手門だそうです。最近になって発掘調査と整備がだいぶ進み、大手門にも、土塁や厩跡などが復元され、ずいぶん整備されていました。
時間が決まっているからか、ガイドの先生も、土塁や御所堰などの説明を簡単に解説。先を急ぎ、あっという間に、竜が池の手前まで来ます。
竜が池は、灌漑用に、大正時代に作られた人口のため池。高台にあるので、そこに登ると武田氏館がよく見渡せるそうです。
それにしても、目の前には、80段以上もある階段。このところ、散歩をさぼりがちだったためか、階段を見ただけで、大丈夫かなと心配になります。先生は、「ゆっくり行きますよ」と言ったものの、結構早足で駆け上がっていきました。
先生も、周りの参加者も、さほど遅れることなく登りきっていったのには、びっくり。散策はまだまだ始まったばかり。ここでへこたれるわけにはいかない、と気合を入れます。マスクをしているので、周りの人の表情がわからず、何よりあまり人と話せない雰囲気で、こんな時期でなかったら、色々と話をして信玄つながりの友達もできただろうに、と少し残念ではありました。
竜が池の上から眺めると、館の広さがよく見渡せます。
昔、子どもの頃、遠足で来た記憶のなかの武田神社よりはるかに広く、甲府市が史跡整備のために新たに購入した土地も含めて、館はかなりの規模だったことがわかります。
池の右手には、「躑躅ヶ崎館」の地名の由来になった出っ張りも見えました。
信玄は、躑躅ヶ崎に登り、高台から館を含めた甲府盆地を眺めていたと言います。どんな思いで眺めたのだろうと思いながら、四方を見渡すと、盆地側を除いて、三方が小高い山に囲まれています。
先生に、「要害山城」は、どこか尋ねてみました。先生は、すぐに要害山城だけでなく、熊城、湯村山、初めて聞く名前でしたが一ノ森(守)、ニノ森(守)、三ノ森(守)など、要害山城を囲む出城や狼煙台のあった山々を、指差しながら説明してくれました。
躑躅ヶ崎館が攻められたとき、詰城として築城された要害山城。信虎が今川氏に攻められ、大井夫人が要害山城に避難していたときに、信玄が生まれたと言います。
解説を聞きながら、こうして俯瞰して館周辺を見ると、なるほど、ここが「天然の要塞」だったということがよく分かり、信虎が新しい府中として、この地を選んだ先見の明に驚かされます。
その他、東方面の興国寺や若宮八幡神社など、武田家ゆかりの寺社の説明があり、色々と聞きたいことはありましたが、次のグループが続き、先を急ぐ感じだったので質問は控えました。
竜が池の北側から降りて、今度はそこから積翠寺を目指して再び登り始めました。
途中、宝積寺に寄り、武田家の家臣の墓を見学。さらに進んで、御所堰の取り出し口も確認しました。ここから水を引いて、水路を作り、館の堀に水を溜めたとのこと。戦国時代の都市づくりの知恵に感心させられます。
道すがら伺った話では、今回の散策のコースは、相川の二つの沢の間の道、あえて戦国時代の道筋に沿って計画してくれたようです。敵が、要害山城に攻め入るという視点で、いかに攻めづらいかということを体感してもらうために。
道は決してまっすぐではなく、時々現れる曲がり角はクランクのようになっています。なるほど簡単には攻め入らせない。頭はいっとき戦時になっていました。
しかし、今は平時。時折、五月の爽やかな風がそよぎ、周辺は、棚田や梅畑が広がり、のどかな里山風景。実にいいところです。
御多分に洩れず、若い人の離農が進み、耕作放棄地が点在していましたが、そこに、集落の人が花を植えて、景観を損ねないようにしています。その花畑は、地元の養蜂家のための花畑にもなっているようで、武田の里山のハチミツを是非とも味わってみたくなりました。
途中、上積翠寺公民館で、トイレ休憩。個室が男・女それぞれ一つずつだったので、全員が終わるまでに結構時間がかかり、すでに、11時を回っていました。そこから坂道も少しきつくなったものの、ほどなくして積翠寺に着きました。
積翠寺では、信玄が京都から客人を招き、和漢連句を行なったそうで、その記録は貴重な資料として残されているとのこと。確か、県立博物館で現在展示中の資料のなかにあったような気がしました。
寺の裏には、こじんまりとした庭園があり、客人たちが愛でたであろう松の木が存在感を放っていました。
その他、信玄が誕生したときの産湯をくんだと伝えられる井戸がありました。信玄の誕生地は、この先を登ったところにある要害山城との説と、ここ積翠寺という説があるそうです。数野先生は、積翠寺説に賛同しているようですが、いつか機会があったら、その理由も聞いてみたいと思います。
要害山城へ登城するには、積翠寺から40分くらいはかかる狭い山道だそうで、もう少し足腰鍛えてから、また挑戦したいと思いました。
積翠寺からの眺めも素晴らしく、甲府盆地がよく見えました。近くに、温泉旅館が二軒あり、つい数年前まで時々行っていたのに、残念ながら二軒とも閉館したそうです。山梨県民としては、信玄生誕の地の積翠寺周辺の整備を、温泉も含め、ぜひお願いしたいと思いました。
積翠寺のバス停に、11時50分発の下りのバスが、タイミングよく停車していました。
帰りはバスに乗ってもよいことになっていましたが、ほとんどの人は再び歩いて武田神社まで戻ることにしました。
今度は、来た時の道ではなく、相川の西側の沢沿いの小径を下っていきました。沢の周辺には竹が生い茂り、京都の化野あたりを散策しているような感じがしました。
道すがら、ところどころに馬頭観音や岩船地蔵と呼ばれるお地蔵さんなどが点在し、その度に先生が、だいたいいつの時代に作られたものかを、その手がかりとともに解説してくれます。
途中から、車道に出ると一気に視界が広がり、里に降りてきた感じがしました。館跡までくると、現在発掘調査中の味噌曲輪や稲荷曲輪のところを通って、今度は北側の入り口から館跡に入り、これも初めての経験でした。
西曲輪の跡地から南の枡形虎口に出て、虎口や石積みの解説を聞き、信玄ミュージアムに戻ってきました。時計を見ると、昼の一時近く。往復4時間はかかったことになります。中身が充実していたせいか、あっという間でした。
周った史跡には、大抵甲府市で作られた説明板がありましたが、そのどれも数野先生が文章を考えたものだそうで、その意味では一班はとてもラッキーだったと言えるかもしれません。
他の班より早く出たのに、結局どこで追い越されたか、予定にない見学場所も寄り道してくださったからか、最終的に戻ってきたのは最後で、迎えた市役所の人が、さすが本陣、最後のご帰還、みたいなことを言っていました。