Yamanashi / Japan

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博物館めぐり

『武田信玄の生涯』展の感想(山梨県立博物館)

『武田信玄の生涯』展の感想(山梨県立博物館)

武田信玄像 甲府駅前

山梨県民が郷土の英雄として、今も敬愛してやまない武田信玄は、2021年生誕500年を迎えます。

山梨県立博物館では記念すべき本年、『生誕500年 武田信玄の生涯』展を開催しました。

当博物館では、これまでにも武田信玄に関わる展示を何回か開催してきましたが、今回は開館15周年記念も兼ねた総合的な展示となっています。

エントランスと会場入り口

山梨県立博物館山梨県立博物館

例年になく、桜の開花が早まった3月下旬、久しぶりに山梨県立博物館を訪問しました。

通常のエントランスは工事中で、今回はその手前の玄関口からの入場になっていました。

入り口で感染症対策の消毒やチェックシートを記入し、中央の受付に進みます。

武田信玄展展示会場入り口

展示会場入り口では、武田信玄の有名な家臣「武田二十四将」と、武田氏が関わった城の人気投票(総選挙)も行われていました。

信玄展 入り口好きな家臣や城にシールを貼ります

武田二十四将人気投票武田二十四将 総選挙

武田氏城郭人気投票武田氏城郭 総選挙

総選挙の結果発表は、会期中の5月1日とのことです。

信玄バッジ

入り口では、来館記念として特製缶バッジが配布されていました。

缶バッジは、前期(4月12日まで)と後期(4月14日から)で図柄が違い、どちらも先着順で数量に限りがあるとのことです。

訪問した時は前期だったので、展示のチラシにもなっている山梨県立博物館所蔵の武田信玄像の缶バッジでした。

前期缶バッジ直径2.5センチほどの缶バッジ(前期)

展示内容

本展は、年代順に五章に分け、武田信玄の生涯を概説、さらに信玄と戦った戦国大名や当時の生活がわかる史料を通して、武田信玄を総合的に紹介しています。

県外の人はもちろん、県内の人にとっても武田信玄をもう一度学び直すのにはとても分かりやすい展示になっていました。

尚、展示資料は前期と後期で違うものもあるので、HPで確認してから見学するとよいかもしれません。

山梨県立博物館 「生誕500年 武田信玄の生涯」展〔web

序章 信玄の姿

はじめに、これまで信玄の肖像画と伝えられているものが二点展示されていました。

信玄展チラシ

一枚はチラシにも使用されている法師姿の信玄像。

兜をかぶり、軍配を持ち、敵を見据えるかのようにかっと見開いた眼は、私たちがイメージする、これぞ武田信玄と思われるような武者姿です。

甲府駅前の信玄の銅像もこの姿に近いものがあります。

それに対して、もう一枚の甲冑姿の信玄の絵は、少し雰囲気が違って見えます。

信玄像 江戸時代武田信玄像(山梨県立博物館) 図録

解説によると、この絵は信玄の弟で、画家としても知られている武田信廉のぶかどが、高野山に奉納したものを模写した絵のようです。

弟が描いているからでしょうか、どことなく柔らかな表情を浮かべていて、厳しい信玄のイメージとは違って見えました。


第1章 誕生から家督相続

武田氏は清和源氏の流れを組み、鎌倉時代・室町時代を通じて、武家の中でも名門の家柄でした。

本章では、そんな武田信玄のルーツを遡り、また信玄が生まれた頃の時代背景、信玄の父・信虎の甲斐国統一の経緯、さらには父親を追放し家督相続するまでの流れを、貴重な資料とともに解説しています。

古文書などの資料が多い中で、特に目を引いたのは、信玄が幼少の頃乗って遊んだと伝承されている小さな木馬でした。

信玄 木馬木馬(長禅寺 山梨県立博物館寄託) 図録

当時としては、かなり精巧なつくりで、これひとつ取っても、信玄が名門・武田家の嫡男として、いかに大切に育てられていたかが伺えます。

また、江戸時代の甲府の絵地図が展示されていたのですが、その中に、現代まで続く地名をいくつか発見し、信虎・信玄の都市づくりが、数百年のときを経ても尚、現代の県都・甲府に繋がっているという歴史の連なりを改めて実感させられました。

さらに、父親を駿河国に追放したあと、信虎にとっては娘婿にあたる今川義元が信玄に宛てた書状がありました。

一般的に、信虎はわずかの共を連れ、お忍びで駿河国に出かけたまま、着の身着のまま追放された印象ですが、この書状を読むとどうやら無一文で放り出されたわけではなかったことが分かります。

手紙の内容は、信虎の生活費の支払いを求めているもので、どうやら信虎は息子・信玄や娘婿・今川義元に庇護されながら、その後の生活に困窮することはなかったようです。

第2章 初めての敗戦

本章では、甲斐国から信濃国への侵攻の過程が紹介されています。

戦国時代、連戦連勝で戦上手と言われた信玄でしたが、甲斐国から信濃国に領土を広げる過程で、同じ相手に二度敗戦していました。

その相手が、信濃の国衆のひとり村上義清で、特に最初の敗戦となった「上田原の戦い」は、信玄にとって相当な屈辱だったようです。

戦いの直後に、武田氏の氏神の神社に奉納した狛犬が展示されていました。

その底面に彫られた「源晴信武運長久」との勝利を祈願した文言は、信玄の源氏の一族としての誇りと、戦さに賭ける切実な覚悟が伺えます。

この章ではそのほか、信玄の和歌や絵画なども展示、教養人としての一面も垣間見ることができました

当時の武将のたしなみとして、信玄が詩歌に通じていたということは分かりますが、絵にも造詣が深かったということは、この展示で初めて知りました。

しかし、弟の信廉が画家としても有名だったことを考えると、信玄が絵にも高い技量を持っていたことは十分考え得ることです。

信玄模写の絵画信玄が模写したと伝えられる絵「渡唐天神像」(一蓮寺) 図録

この絵は、武田家に伝来したものを、信玄が模写したといわれている絵画です。繊細な筆致で、かなり細かなところまで丁寧に筆を入れていることが分かります。

また、家臣の真田家に伝わる、信玄から拝領したとされる宝物や、信玄が浅間神社に奉納した、後奈良天皇が筆写した般若心経(国宝)など数々の宝物、さらには、武田氏時代のものとされている金貨も展示されていました。


第3章 川中島の戦い

信玄の生涯を語る上で、絶対欠かせない戦いが「川中島の戦い」です。

本章では、最大の敵・上杉謙信との五度にわたる「川中島の戦い」の様子を、古文書をもとに解説しています。

特に目を引いたのは、信玄自筆と明記してある何点かの書状でした。書状に認められた信玄の字は、とても端正で繊細な感じさえ受けました。

信玄自筆書状武田晴信自筆書状(長野市立博物館) 図録

これまでの信玄の剛毅なイメージとは違う印象でしたが、教養人としての信玄の一面も併せ考えると、意外にも細やかな面があったのではとその人柄に想像を膨らますことができます。

さらに、川中島の戦いの様子を描いた、上杉家に伝わる「川中島合戦屏風」が一対展示されていました。

川中島合戦の図屏風は何点か存在するようですが、前期の展示は上杉博物館所蔵のものでした。

屏風絵は、江戸時代のもので、五度の戦いのうち一番激しかったといわれる第四次合戦を描いています。

両軍の兵士が所々で凄まじい戦いを繰り広げている中、よく見ていくと、有名な信玄と謙信の一騎打ちの様子も描かれています。

川中島一騎打ち 上杉博物館川中島合戦図屏風(上杉博物館)拡大図 図録

この一騎打ちの場面は、のちに軍記物などで創作されたもので、現在のところ史実だったと裏付ける史料は見つかっていないとのこと。

しかし、屏風絵からは、死闘を繰り広げた両軍・両雄の覇気が感じられ、実際こんなことがあったのではないかと、ついつい期待してしまいます。

続いて、「御旗楯無みはたたてなし」といわれる武田家伝来の家宝の複製が展示されていました。

代々続く武田家のシンボルとして、これらの家宝を前面に出すことで家臣団の団結を図った信玄の統率力の源を知ることができます。

次に目に入ってきたのは、のちに「信玄堤しんげんづつみ」といわれる、現在の甲斐市竜王に広がる堤の絵図でした。

十数年にわたって謙信との大きな戦さをしていた信玄が、その最中に甲斐国に繁栄をもたらす治水工事を指揮していたのです。

驚くことに、その堤防は、現代までもその役割を果たし続けています。

ただ単に戦さ上手というだけでなく、領民・領国を守るそんな政策のきめ細やかさにも、後世まで続く信玄人気の秘密があるような気がしました。


第4章 上野・駿河へ

信玄は、信濃だけでなく、やがて上野こうずけや駿河にも領土を拡大していきます。

本章では、信玄が、周辺の上杉氏や北条氏、今川氏と同盟・敵対を繰り返しながら、刻々と変化していく戦乱の世を、いかにしたたかに生き抜き、領土を拡大していったかが分かります。

しかし、信玄は、その圧倒的な領土拡大と引き換えに、武田家最大の悲劇ともなる嫡男・義信との確執を乗り越えなければなりませんでした。

のちに「義信事件」といわれる、義信と一部の家臣によるクーデター未遂事件が起こり、家臣は即刻断罪、義信は甲府の東光寺に幽閉され、やがて自害に追いやられてしまうのです。

いったいこの事件がいつ起こったのかなど、事件に関する詳細な史料は非常に少ないそうですが、今回の展示では2006年に発見された新たな史料が提示されていました。

新史料は、高野山の武田家の菩提寺に伝わる過去帳で、その中に、義信事件で成敗された家臣の一人が記されていたことから、事件もおそらく同時期に起こったのではないかと考えられているようです。

武田家の歴史にはこのようにまだまだ不明なこともあり、今後新たな史料が発見されると、これまでの定説が覆されるようなこともあるかもしれません。

また、目を疑ったのは、足利義昭御内書(米沢市上杉博物館所蔵・国宝)です。

この書状は、義昭が上杉謙信に宛てたもので、信玄が謙信と一時的な和睦を図りたいといっているという内容です。

解説によると、信玄はどうやら謙信との仲裁を義昭や織田信長に依頼していたとのこと。

あれほど長年対立していた謙信と和睦してまで、信玄はいったい何を企図していたのでしょうか。

戦国時代の勢力図がどんどん変化していく中で、信玄があらゆる策を講じて、領土拡大に邁進していたことを伺わせる書状です。

第5章 天下人との戦い、信玄の死去

織田信長・徳川家康という新しい力の台頭で、信玄はさらなる新たな敵との戦いに挑んでいきます。

本章では、新勢力との争いの渦中、志半ばで病に倒れるまでの信玄の足跡を紹介しています。

信玄の晩年における足利義昭や、織田信長との関わり、徳川家康との断絶など複雑な時代背景を分かりやすく解説していました。

興味を引いたのは、信長・家康が信玄の非道を訴えた書状があるかと思うと、逆に信玄が信長・家康の非道を糾弾した書状も展示されていたことです。

互いに自己の正義を主張しているところを読むと、戦争の根本はいつの時代も変わらないものだと妙な納得感がありました。

しかし、そこはやはり山梨県民。どうしても信玄の肩を持ちたくなります。

解説によると、信玄は味方を増やすために、このような信長を糾弾する書状を数多く作ったとのこと。

信玄書状写し信玄書状写(千葉国立歴史民族博物館) 図録

展示されていた書状は二枚に渡り、信長の非道を、細かな字でびっしり書き連ねてありました。自身の病状も思わしくなかったのがわかっていたからでしょうか、行間からも信玄の悲壮なまでの必死さが伝わってくるようです。

その後、三方ヶ原で、織田・徳川軍に圧勝したものの、信玄の病状はたちまち悪化し、とうとう甲斐国への撤退途上で、53年の生涯を終えました。


信玄は自身の死を3年間は秘匿するように遺言しましたが、信玄が亡くなったのではという噂はすぐさま方々に飛び交ったようです。

前期では、武田軍の帰国を記した下総国・結城晴朝の書状(国宝)が展示されていました。

なんと、信玄が亡くなったことは、その月のうちに周辺諸国に知れ渡っていたようで、戦国時代の情報網のすごさに、ただただ驚くばかりです。


終章 信玄の遺産

最後の章では、信玄が後世に遺した遺産が、現代までどのような形で語り継がれてきたかを紹介しています。

展示では、近年、歴史的史料としての価値が見直されてきた『甲陽軍鑑』を通し、人々に語り継がれていった経緯、また徳川綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保などの手により、武田家ゆかりの遺品の整理が進んだことについても触れています。

柳沢吉保といえば、テレビドラマなどでは悪役として通っていますが、甲斐国においては信玄亡き後の甲斐国の発展に貢献したひとりとして有名です。

その柳沢吉保が、自らも武田氏の一族の出自だったこと。さらに滅亡した武田家の再興にも尽力したことをこの展示で初めて知りました。

武田信玄 図録武田信玄の生涯 図録

500年の時空を超えて、いまだに山梨県民の共通する心の拠り所となっている武田信玄。

武田信玄の物心両面の遺産は、今後も語り継いでいきたい大切な宝だということを実感しながら博物館を後にしました。

ABOUT ME
なえ
山梨生まれ山梨育ちのおばちゃん(おばあちゃん)。セカンドライフ。地元山梨の色々な場所を巡りながら、美術館の感想やおすすめの情報、雑学などをブログに書いていきたいと思います。