山梨県民と武田信玄
山梨県民の誇りといえば、富士山と武田信玄。
今回は、甲府駅前のこの銅像とともに、山梨県民の心の拠り所となっている、武田信玄についてお話したいと思います。
しばらく前に、ある民放番組で、「山梨県民は、武田信玄を呼び捨てにしない、か?!」ということが話題になりました。
確かに、60代以降の人たちは、「信玄公」や、「信玄さん」とか言う人が多いような気がします。現に、我が家でも、駅前で待ち合わせるときは、「信玄さんの前で」なんて言ったりします。
もっと上の年代の人にとっては、もしかしたら「神」のような存在に近いのかもしれません。実際に武田神社には、信玄を祭神として祀ってあります。
拝まないまでも、日常生活の中のあらゆるところで、「信玄さん」に出会います。
信玄袋
たとえば「信玄袋」。
これは布製で底が平たく、口紐で結べる手提げ袋で、身の回りの小物を一切合切入れる袋なので、「合切袋(がっさいぶくろ)」ともいわれています。
信玄が、戦いに向かう時に、この袋を使用したといわれています。普通の巾着袋より、大きく、今のボストンバッグみたいなものだったのでしょうか。山梨だけでなく、全国で使われています。
信玄堤
信玄堤は、山梨県甲斐市竜王にある釜無川(富士川の上流)の堤防のことで、信玄が命じて築かせたものです。この地域は、古くから大雨により度々川が氾濫し、甲府盆地はその都度甚大な被害を被っていました。
信玄は、甲斐の国を治めるようになってすぐ、この釜無川の治水工事を始め、約20年かけて信玄堤を完成させたといわれています。驚いたことに今もその知恵の一部が残っているというのでビックリです。
毎年のように川が氾濫して、お米の収穫に悩まされていた農民は、この治水工事によって、どれほど救われたことでしょう。そのことを感謝して、「おらが、お殿様のおかげ」と語り継いできたのだと思います。
信玄ほうとう
山梨のソウルフード「ほうとう」も、信玄が戦の時の陣中食として広めたといわれています。
山間地域がほとんどの甲斐の国では、お米の収穫量が少なく、そのため、畑でとれる小麦を使った麺文化がほうとうを生んだのでしょう。
かつては、ほうとうを手打ちできて一人前の山梨の嫁だったとか。私が子どもの頃も家にのし板やのし棒があって母がよく手打ちのおほうとうを作ってくれたのを覚えています。
ついでにいうと、山梨県民は「ほうとう」にも「お」をつけて、「おほうとう」というのが一般的です。これも「信玄さん」への敬意の現れでしょうか。
信玄の隠し湯
温泉で、戦の傷や疲れを癒す戦国武将は数多くいたようですが、中でも信玄は、温泉好きだったようです。
領内であった山梨・長野だけでなく、勢力が及んだ静岡、岐阜にまで点在しているそうです。湯村温泉や積翠寺(せきすいじ)温泉、下部温泉、西山温泉など、今でも多くの湯治客が秘湯を訪れています。
信玄桝(ます)
甲斐の国で使用されていた分量を量る桝のことで、「甲州桝」ともいいます。信玄が、領内において量りの単位の統一を行ったことで、「信玄桝」とよばれました。
大きさは、通常の「京枡」の一升=約1.8ℓの三倍の大きさ、一升=約5.4ℓで、江戸時代に入って全国が京枡で統一されたのに対して、甲斐の国だけはこの「信玄桝」の使用を許されたそうです。
そのなごりが、戦前まで残っていて、私の母は、この大きい信玄桝をよく使っていたと言っていました。信玄桝で量ると、計量が早いのだそうです。
このように、今に名残を留める信玄への敬慕の念。山梨県民にとって武田信玄は、いまだに「おらがお館様」なのかもしれません。
やはり、呼び捨てにはできないのでしょう。